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第60録 当時の街並みなど多くの面影を残す街

いい旅ニッポン見聞録2021年5月号 Vol.570

京と大坂を結ぶ街道と宿場町

当時の街並みなど多くの面影を残す街

大阪・守口市

▲当時の面影が残る文禄堤の街並み

唯一現存している文禄堤(ぶんろくつつみ)

京阪守口市駅の北側に現存する「文禄堤」は、文禄3(1594)年に伏見城を築いた豊臣秀吉が、伏見城と大坂城を最短距離で結び、かつ降雨量が多い時などにも使用可能な陸路が必要となったことから、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に淀川の改修を命じ、淀川左岸の堤防を改修・整備し、文禄5(1596)年に完成したものです。

築造当初の堤の長さは現在の枚方市から大阪市長柄までの約27キロと伝えられており、安全な交通路として、また、河内平野を淀川の氾濫から守る堤防として、多くの人々が助けられてきました。

しかし、淀川の改修や市街化の進展等により、その大部分は姿を消し、現在では守口のみで、かつての面影をしのぶことができる堤の一部(約720メートル)が保存されています。

東海道五十七番目の宿場町

堤防上の道は、京へ向かうときは京街道、大坂へ向かうときは大坂街道と呼ばれ、後に東海道の一部となり、東海道五十七次の最後の宿場町である「守口宿(もりぐちじゅく)」の一部が置かれました。

守口宿は東海道と奈良街道(清滝街道・守口街道)の分岐点という要衝であり、問屋場、本陣、多数の旅籠や茶屋が建ち並んでにぎわったとされ、当時の街並みの面影は現在も残されています。

再建された「高札場(こうさつば)」

守口宿には、他の宿場と同様に「高札場」が設けられ、江戸幕府が定めた法律や、地域の決め事である御法度や掟などを墨書きした木版がかかげられていました。当時は高さ二間一尺五寸(約4メートル)、横幅五尺五寸(約1・5メートル)の構造物に6枚の札がかかっていたと伝えられています。

2016年には、市民や来訪者が、京街道・東海道の往来が華やかだったかつての文禄堤や守口宿の姿に思いをはせ、守口の歴史・文化とその魅力を発見するための記念物として「高札場」が再建されました。

パナソニックなどの企業城下町というイメージが強い守口市ですが、「一里塚跡」記念碑、宿場町の街並みなど、現在も多くの面影が残されています。

▲奈良街道への分岐点。左下の石碑には「右 なら のざき みち」と書かれています。「のざきみち」は野崎参りで知られる野崎観音の慈眼寺への道のこと

▲旧街道沿いには新しく道標が建てられ、散策コースにもなっています

▲再建された守口宿の高札場