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〔1〕被災者にもっと寄り添う仕事がしたい

かがやきDAYS2014年4月号 Vol.485

宮城・南三陸町で復興支援に奔走

被災者にもっと寄り添う仕事がしたい

東京・世田谷区職労 志村 有司さん
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▲手作りのサインボードを持つ志村さん。モチーフは南三陸町歌津で発見された、中生代三畳紀の魚竜「ウタツサウルス」で町役場に展示中

東日本大震災で死者・行方不明者あわせて789人、罹災率62%という甚大な被害を被った南三陸町。

津波でさらわれた土地の10㍍に及ぶ嵩上げや高台移転等、3年たった今でも町は復興の真っ只中です。

志村有司さんは2年前から東京・世田谷区の派遣職員として復興支援に従事してきました。

志村さんは、世田谷区納税課の特別徴収係長でしたが、職員派遣の話が出ると、即座に「行きます」と名乗り出ました。それは、世田谷区職労のボランティアで陸前高田市に入った際、壊滅した市街地の惨状にあふれる涙を抑えることができなかったこと。またボランティアの大切さとともに、「一時的支援」の限界を感じ、自治体職員として被災者にもっと寄り添う活動ができないか、帰京後もその思いを抑え切れずにいたからだと言います。

志村さんは、この2年間、復興企画課での復興交付金の申請支援や森林資源の活用実験事業で間伐材を使った「ペレットストーブ」の普及検証などを行いましたが、この間に被災者に寄り添う仕事をしたいとの思いと実際の仕事の乖離に心が折れそうになった時期もあったそうです。それでも保健福祉課への異動と持ち前のバイタリティーで、被災2周年の追悼式典の準備に奔走し、その後は、学芸員の資格を活かし、文化財の保護啓発や史跡の復旧整備に従事してきました。

志村さんは、この3月で世田谷区に戻りました。本人は派遣継続を希望しましたが、区の事情で戻らざるを得なかったそうです。志村さんは2年間の派遣期間を振り返り、これほど仕事に没頭できた時はない、この町は生きている限り忘れない「第2の故郷」となったといいます。

被災者に寄り添いたいとの思いで、「復興」のために奔走した2年間。その志村さんを支えたのは「今行くのが当たり前でしょう。家は大丈夫」と励ました奥さんの一言でした。

志村さんが南三陸町に残してきたものは、自治体職員として被災者に寄り添い続けた心根でしょう。その心根は、休日に作り続けてきた魚竜等をモチーフにした手製のサインボードとともに、役場や町の施設にいつまでも残ることでしょう。

志村さんの手記は『3・11岩手 自治体職員の証言と記録』に掲載されています。

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▲大津波に襲われた旧町役場一帯、多くの被害者を出した防災庁舎の近くに、ひっそりと花が手向けられています