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住民の喜ぶ笑顔が元気のもと
公務公共の仕事を誇りに委託化に反撃、職員補充も実現
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埼玉 熊谷市職労
10月24日(土)、埼玉県熊谷市の環境美化センターで「リサイクルフェア」が開催されました。市では熊谷市職労の提起で、ゴミのリサイクルにとりくみ、リサイクルされた品物は春と秋のリサイクルフェアで住民に提供され、たいへん喜ばれています。市は職員の努力と住民の支持に応えて作業場を建設、また、清掃職員も継続的に補充されるなど、住民の要求と職場を守る活動が結び付いています。
▲1000人を超える住民が集まる。サービスの風船やポップコーンをもらった子どもたち、「子や孫が毎年楽しみにしています」と古本を品定めするお年寄り、「次はいつですか」とたずねる家族連れもいました |
当日は午前10時の開会前から長蛇の列になりました。人気の自転車は20台に200人が抽選に応募。手をかけてリメイクされた家具は驚ろくほど綺麗で豪華。値段は高くても数千円ということで、家具ごとの抽選になります。抽選の司会進行も職員が見事な手際で仕切ります。当選すると、「やった!うれしい」と歓声が。「なんでもコーナー」はスノーボード、おもちゃ、陶磁器と何でもあり。「自分たちで集めて、修理し、きれいにした品物を住民の方が喜んでくれるとうれしい」と若い職員は忙しそうです。新設された子ども服のコーナーも人がいっぱいです。車や人の誘導から販売まで、職員が行いますが、みんな活気にあふれています。昼には豚汁のサービスに長い列もできて、みんながこのフェアを楽しんでいます。
▲人が転倒しては危ないので、各コーナーへは列に並んで移動します |
▲開会前の時間を使ってゴミの出し方の勉強も。市民の関心も高まっています |
▲ギター、スノボなど何でもありの「何でもコーナー」 |
「どうしたら委託化を防げるか」
いいと思ったことをやってみようと手作りから
96年に最初のリサイクルフェアが「古本まつり」として開催されました。それ以前に熊谷市職労の執行部を先頭に新聞古紙の回収をはじめていました。そうしたなか、「古本の回収もできるのでは」と提案があり、やってみると予想以上に集まり、そこからリサイクルとしての「古本まつり」につながりました。
こうしたとりくみは「どうしたら委託化を防げるのか。少しずつでもいいと思ったことをやってみよう」ということからスタートしたものでした。
最初は職員の駐輪場と庁舎の間のスペースを作業場としてはじめ、試行錯誤も繰り返しながら、自転車、家具や電化製品からジーンズと新しい品物に挑戦しています。これも組合員の提案からはじまったもので、98年からは名前も「リサイクルフェア」となりました。
組合で話し合い「ゴミのなかにも使えるものがある。使えるものを処分するのは『リサイクル』という考え方からしておかしい。自分たちは住民のために仕事をしている公務員だから住民に提供しよう」と意見がまとまり、これがリサイクルフェアの精神になっています。
▲最初の作業場は駐輪場と庁舎の間のスペース。駐輪場の屋根も組合員が自ら溶接して改良するなど、手作りからスタートしました |
▲現在は市が作業場を建て、さらに拡張、立派なリサイクル作業場となっています。写真は3代目の作業場 |
「ゴミを集める収集車だから一番きれいに」
市民の評価で清掃職員も補充
熊谷市の収集車はピカピカに磨かれています。実は、ゴミの収集をした後、焼却施設で一度洗うのですが、環境美化センターに戻ってからもう一度隅々まで洗い、ワックスもかけています。「ゴミを集める収集車だからこそ、一番きれいでなければいけない」という気持ちの表れです。この作業が終わってからリサイクルの作業を行います。
自転車や家具の修理、ジーンズは洗濯して乾燥。ベビーカーは高温高圧洗浄機を使って丁寧に洗います。「器用な人もいる。みんな色々な能力を持っていて、無理にというのではなく、自主的にそれを出してもらい、教え合うことで長続きしています」と前林委員長は話します。
日々の積み重ねがリサイクルフェアに結晶して、市民に支持されています。収益は市の収入に計上して経費に充てています。こうした職員の努力と市民の喜ぶ姿を見て、熊谷市は立派な作業場を建て、清掃職員も継続的に補充されています。採用された職員へは研修期間の昼にアタック。「(市役所に)入ったのはみなさんの実力だが、採用の窓口を開いたのは組合」と組合加入を訴えて「われわれの仲間」になっています。
▲熊谷市職員労働組合
前林 兼二 委員長 |
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主張
暮らしを改善する公約の実行せまる運動強化へ
09賃金確定で要求の前進を |
総選挙以降の情勢に関わっては、引き続き、暮らしを変えたいと願う国民の運動と、巻き返しを狙う財界・大企業、アメリカの圧力との「綱引き状態」にあることが、より一層明らかとなっています。
普天間基地の移転問題では、米国防長官が政府首脳に圧力をかけ、岡田外相が「県外移転困難」を言い出す事態が生まれました。
また、26日に開会した臨時国会では、「財源問題」を背景に国会提出法案を絞り込むと同時に、公約の実施に関わっても、子ども手当で地方負担の導入や扶養控除の廃止が持ち出され、生活保護母子加算復活と高校就学費の廃止と抱き合わせにする動き、後期高齢者医療制度でも、若干の修正のみで廃止を先送りにしました。
こうした連立政権の動揺の背景には、「アメリカに対し、公約に示された日本国民の選択を主張できない」「財界・大企業に対し、社会的責任や応分の負担を求められない」という、民主党自身の持つ弱点が現れています。
一方で、政権の「動揺・後ずさり」を許さない国民の運動も、国政・地方政治で広がっています。
生活保護母子加算では、反貧困ネットワークなどの反撃で「年度内は完全復活」との閣議決定を引きだし、沖縄でも「普天間基地移設の公約守れ!」の運動が高まっています。また、千葉県野田市での「公契約条例」制定、東京都板橋区での「非常勤職員報酬の上限撤廃」などが進んでいます。
同時に注意しなければならない状況として、国会機能を低下させることを狙う「国会改革法案」の国会上程を狙う民主党の動きも無視することはできません。
この臨時国会を、11・8国民大集会など国民・労働者のくらし改善求める大きな世論で包囲し、深刻な国民・労働者の生活・雇用実態を改善する、具体的な公約を実現する場とさせることが重要です。
09賃金確定のとりくみが各地で開始されています。「制度は国、水準は地場」として、月例給・一時金・住宅手当持ち家分のトリプルカットを押し付ける公務員人件費大幅削減の動き許さず、自治体当局の雇用責任と、賃下げの「悪魔のサイクル」が民間労働者の賃金や地域経済に与える影響について、自治体当局の行政執行責任を徹底的に追及することが重要です。
「住宅手当削減許さず改善を」「非正規・公務公共労働者の均等待遇確保」のたたかいとともに、集中改革プランを改め、住民の願いに応える施策を実施する上で必要な人員・職場体制の整備を求めることなど、積極的な要求を掲げてたたかいを広げましょう。そして、この要求実現の攻勢的な運動の中で、組織の強化・拡大のとりくみを飛躍させましょう。
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“マイナス勧告”は許さない 住宅手当を削るな
秋の闘いスタート |
職場の怒りや要求束ね 全国で闘いにたちあがる
10月16日までに、政令指定都市や都道府県の人事委員会勧告が出そろいました。給与構造改革を推し進め、「制度国準拠・水準地場準拠」の徹底をすすめることで公民較差が地方間で大きくばらつき、給料表や一時金の引き下げに加え住居手当の廃止や見直しなどが勧告されています。2009年秋季年末闘争の勝利をめざして、10・15自治労連全国統一行動・現業統一行動、「非正規雇用・公共関係労働者闘争ゾーン(10・15〜11・15)」として、全国で集会や宣伝行動など、職場・地域に根ざした運動が繰り広げられました。
現業の要求前進へ都庁前総決起集会
東京自治労連
東京自治労連が開催した「10・15総決起集会」で荻原中央執行委員長は「現業・非現業の労働者が一体となり、国民・都民や民間労働者との共同の運動を発展させ、住民が主人公の政治への転換を実現しよう」と決意表明。現業労働者の要求闘争前進をめざし、意思統一する学習決起集会には、105人が参加しました。
大幅賃金削減はね返す決意が続々と
名古屋市職労
名古屋市職労は本庁舎前で「現評・女性部・青年部10・15決起集会」を行い、1500人が参加。国保推進員部会の田原静代さんは、大量の派遣切り、正規のリストラで、国保に加入する人が増え続け、多忙を極める職場の状況を紹介し、「収納率を上げるために、早朝、夜、土曜、日曜等、時間外に仕事をしても手当はつきません」と厳しい労働実態を報告しました。
▲本庁舎前で「現評・女性部・青年部10・15決起集会」には1500人の組合員が参加しました(名古屋市職労) |
非正規公共労働者の要求実現めざし
静岡自治労連は10月6日から統一要求書と単組要求を各自治体に提出し、単組を激励。愛知県本部では18単組で要求書を提出。埼玉県本部は10月18日、指針を活用した改善の集会を40人の参加で開催。統一要求書と単組要求を提出することを確認しました。芦屋病院非常勤労組では全員集会を開催しました。
埼玉県職では「地域手当引き上げ分相当の賃上げと忌引や病休を検討する」、奥州臨職労(岩手)は「通勤手当を別枠で支給と婦人科検診実施」、北九州市職労は「嘱託職員の任期満了時の雇用中断期間(1年)を撤廃する」と回答。
臨時国会が開会
情勢の変化を活かし、要求実現
自治労連緊急省庁交渉を実施
国民が自公政権を退場させ、各省庁が概算要求のやり直しをおこなっているなか、自治労連は、情勢の変化を活かし、要求実現をめざして、総務省(10月7日)、厚生労働省(同8日)への緊急要請行動をとりくみました。
▲「国民要求の実現を!」と国会請願デモ |
総務省
地方分権改革 地方行革NO
総務省には、「地方分権改革」「地方行革」「公務公共業務に従事する労働者の権利・雇用について」に沿った具体的な要求7点を申し入れました。
参加者は、行政改革推進で、「保育士が正規から非正規に置き代わり、非正規が半数を超えているところが出てきている」「大幅な人員削減で職場は過重労働、さらに業務委託があらゆるところに拡大している」「病気休暇やメンタル不全者が一気に増えている」と職場の実態を訴えました。
総務省は、国と地方が対等の立場で協議する「地方財政委員会(仮称)」の設置要求について、「方向性では、要請内容と同じと考える」と回答。行政改革については、「あくまで地方自治法に基づく技術的助言」「集中改革プランは21年度で終了するが、民主党マニュフェストでは地方改革は言及されていないのでどうなるかわからない」と述べ「労働者の権利・雇用問題は、10月5日に公務員課で対応済みなので意見のみうかがわせてもらう」と回答がありました。
厚労省
労働者派遣法の抜本改正を
労働行政に関わる要請は「労働者派遣法の抜本的な見直しを」「最低賃金は、全国最低賃金の法制化と時給1000円以上に引き上げること」「雇用創出事業は自治体が使いやすい制度とすること」など6点を申入れました。厚労省は「派遣法改正は、通常国会に法案提出をめざしたい」「最賃について、生活保護との均衡の立場で進めたい」「雇用保険適用範囲拡大などについては労政審での意見を聞きながら進めたい」「雇用創出事業については全国知事会からの意見を踏まえ改善したが、効率的に事業が進められるようバックアップしたい」など、回答がありました。
社会保障充実 新型インフル
厚生行政に関わっては、生活保護、介護、医療、保育、新型インフルエンザなどの重点課題に絞って要請しました。
「真のセーフティネットとしての生活保護制度の確立を」について厚労省は「母子加算復活は、子ども貧困解消の立場で準備作業中です」と回答。「障害者自立支援法の廃止」については、「できる限り早急に行いたい」、また「後期高齢者医療制度の廃止について」は「自治体関係者とも協議して進めたい」、「新型インフルエンザ等への対応について」は、「整備費や人件費の上乗せは困難」と、また「感染者受け入れの予算措置」について「平成21年の補正予算で幅を広げて整備できるよう、予算措置を講じている」と回答がありました。
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新しい社会保障のあり方を考え提案型の運動を
第16回社会保障集会 in 横浜 |
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10月17〜18日、「第16回社会保障集会」を横浜市内で開催しました。集会には16地方組織・45単組から107人が参加しました。
基調報告で森永伊紀中央執行委員は、新自由主義的構造改革による労働者・国民の貧困と格差が拡大してきた経過を説明。「憲法25条に保障された社会保障制度の実現に向け、社会保障制度の後退に『ノー』の審判を示した力と連帯し、提案型の運動をすすめよう」と呼びかけました。
特別報告で実践を交流
特別報告では「ホームレスの生活保護申請は神戸市の更正センターへの入所が原則になっており、敷金補助をおこなっていない。こうしたもとで市当局へ交渉しながら、派遣村のとりくみで敷金不要のアパートを紹介するなど、各団体が連携した」(兵庫)、「低賃金のもとで職員が次々と辞め、労働強化がすすみ、利用者に向き合えなくなるなどの悪循環がすすんだ。障害者、家族、事業者との共同を模索し、障害者自立支援法の抜本改善を求める運動が大きく前進した」(鳥取)など4人から各地のとりくみが報告されました。
2日目は5つの分散会に分かれ、経験交流・課題討論を行いました。
記念講演
国民・労働者の手で新しい福祉国家実現を
立教大学コミュニティ福祉学部 芝田英昭教授
世界的な経済危機のなかで、規制をなくし、すべてを市場に委ねることは、国民にとって利益がないことがわかっただけでなく、企業にとっても長期的には利益にならないと財界の一部も気づき始めている。その流れを民主党がすばやく感知し、自民党の構造改革をめざす政策から、国民要求に答える政策に変えた結果が、総選挙での大勝につながった。
しかし民主党のマニフェストには、「消費税を財源とする最低保障年金」など、消費税増税・法人税削減の大企業優遇の路線が変わっていないことを見逃してはならない。制度批判と要求だけでなく、われわれが福祉のあり方を提示し国民の手で福祉国家を実現するための「日本型社会福祉論」の構築が求められる。
参加者の感想から
職場の深刻さは思った以上。仕事を語る活動を、組合でも職場の中でも、研修などを位置づけて組合員がイニシアチブをとっていくことが大切だと思う。住民・利用者の立場に立てるかが大きな分かれ目だという意見に共感した。国がきちんとした税金の使い方をし地域経済の活性化を。
▲集会では総選挙後の社会保障をめぐる情勢の変化をつかみ、具体的要求の前進を勝ち取るための意思統一が図られました |
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社会保障費を増やして、国民のための医療・介護への転換を!
10・22中央集会 |
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医療、介護、社会保障の再生求め全国から4千人
これまでの共同を一層広げ、社会保障費総枠の拡大を実現し、「崩壊」危機にある医療・介護、社会保障の再生を勝ち取ることを目的として10月22日、「社会保障費を増やして、国民のための医療・介護への転換を!10・22中央集会」を中心とした国会議員要請・府省要請など一連の大行動がとりくまれました。自治労連や医労連など医療関係労組と医療・社会保障関係団体による実行委員会によって開催されました。全体で4000人が参加。自治労連も全国から100人が参加しました。
「公立病院ガイドライン」撤回求め
中央集会に先立ち、総務省前行動を実施。また、行動と同時並行して、自治労連・医労連・福祉保育労の共同で総務省へ要請行動を実施。自治労連柴田英二副委員長が代表して要請書を提出しました。
総務省は、公立病院を抱える自治体への09年度地方交付税財政支援として約700億円の上積みを行ったことを根拠に施策の健全性を主張。これに対し、静岡自治労連・下村昌子さんや大阪自治労連・山本政幸さんが医療現場に生じている具体的問題を挙げて政策の矛盾を追及しました。
社会保障行政の転換求め集会・パレード
行動の結集点として日比谷野音中央集会でのリレートークで、名古屋市病院労組の甲斐秀幸副委員長が自治体病院を守る立場から発言し、「現在の救急医療・地域医療体制を後退させる『市立病院改革プラン』の凍結・見直しを求めて住民とともにたたかう」と述べました。
集会では「増やせ!」「転換!」の2色のスローガンタオルが配布され、参加者はそれを掲げてのシュプレヒコール。その勢いで、銀座パレードに出発しました。カラフルなタオルや横断幕を掲げた白衣のパレードに、沿道の人々からも激励がありました。
▲白衣とスローガンタオルで銀座をパレードする自治労連の仲間たち |
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特集
自治労連・自治労連共済20周年
文芸・研究論文コンクール入選作品 |
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入選作品・講評
自治労連・自治労連共済20周年を記念した「文芸・研究論文コンクール」は、9部門41人の応募がありました。
組合員のみなさんが忙しい仕事の合間をぬって創られた応募作品には、一所懸命努力された輝きをみることができました。今回のコンクールは1999年の10周年記念に続いて2回目でしたが、応募作品が少なかったことや各分野でのばらつきもあって改善点は多々ありますが、こうした機会をいかして、さらに文芸分野等での活動がより発展することを願っています。入選作品と審査員の講評を掲載します。
講評
(1)短編小説 【講評】吉開那津子
入選作品『祖父の足跡』は、孫である語り手の立場から、大正7年に貧農の五男として生まれ、日中戦争、太平洋戦争、戦後の荒廃の時代から今日までを生きた一日本人の半生を描いています。炬燵に向かい合った祖父と孫との語らいの中から、祖父の足跡を浮かび上がらせるという構成のため、「私」の立場からの描写と「秀雄」という祖父の立場からの叙述と、視点が絶えず移動するのは、この作品の難点です。小説本来の手法として考えれば、「私」は黒子として小説の背後に退き、「秀雄」に一貫とした主人公の役割を果たしてもらわねばなりません。そういう難点があるにもかかわらず、この作品が、読者に文学的感動を与えてくれるのは、困難な時代を生き抜いた先達への、作者の、敬愛とねぎらいの思いが表現されているからです。
佳作の『赤い道』は昭和28年、職場をレッドパージされ、妻と息子の前から姿を隠した男の行方を、妻の死後、息子が追跡するというサスペンス小説的な構成を持った作品です。せっかく、レッドパージという戦後の日本の混乱を語るにふさわしい事件を素材としながら、調査の結果、ほとんど何もわからないというのでは、読者としては肩透かしを食わされた印象を抱きます。妻子を捨てて出て行ったのに、別の妻子を持っていたという結論に至っては、この男の姿はますます曖昧なものになってしまいます。実際にレッドパージされた労働者たちは、どんな思いや困難を背負ってあの時代を生き、たたかったでしょうか。その点への具体的な調査を重ねていれば、この失踪した男の人物像も、もう少し、はっきりしたものになったでしょう。
今日、私たちの生活の有様、働く現場は激しい変化にさらされています。自治体労働者の生活の場、働く環境もその例外ではないでしょう。そうした労働者の生活の場、労働の場から、小説の主題を見出す努力を重ねていって欲しいと思います。
(2)ルポルタージュ 応募なし
(3)詩 【講評】土井大助
詩の部門に寄せられた作品は題材も多様で、日常の生活と運動の体験や感慨の節々を、書き手の好きな言葉で詩作品にされています。そこには今日の時代と自治体労働者の生活とたたかいが反映されています。
上垣優子さんの『きっとはじまる』は、09春闘全国総行動に向けての朝ビラ配布の情景と配布者の心情。「うつろな眼が 無表情に訴え 過ぎていく/たじろぎながら 私はビラを配るのだが…」、ビラ配布を初体験した人なら誰でも出くわすたじろぎ。ここで尻込みしたら何も始まらない。そのとき作者は「押しよせる うつろなまなざしの中に/時おり光る共感の視線を 見落と」さないのです。
考えてみれば、かつて自分だってそんな視線でビラを受け取っていたはず。そこで「連帯のまなざしを送ろう」と、「うけとる決意をこめたその指先に 1枚のビラを優しくすべりこませ」るのです。
「この1枚から きっと/なにかが始まる」のは確かです。こういう強い決意と優しい行動、こうした積み重ねこそが働くものの生活と権利をまもり広げ、社会を変える道だということを、平明にうたいあげた秀作です。
佳作・大川久美子さん『布の街』は、内外の多様な布地商品に彩られた街の感慨。同じく、佳作・中島昌宏さん『帰り道』は春の夕暮れ、帰宅の道すがらの感慨です。「小さいからこそ力を合わせよう…」、勇気と元気を新たにする仲間の言葉が光っています。
(4)短歌 【講評】山本司
佳作・階見善吉さん『きかんし』は、作品全体に、組合機関紙の発行に携わっている作者の熱い思いと大変な努力の内容を、テーマ意識を持っての十五首の連作であった。
また、表現方法は短歌界では極めて数少ない平仮名と片仮名だけによる口語行分け自由律短歌で、評価においていろいろと分かれる面もあるが、私の短歌観と鑑賞力によって選の判断をおこなった。その中で、口語行分け自由律短歌としてのその特性を生かした佳い作品として(/印は行変えの表示)
・こくこくと/うつるじょうせい/てきかくに/きかんしが/うんどうそしきする
・きかんしげんこうを/やっと/にゅうこうして/ぼくのひるどき/そう/にじはんが
・けいぞくはちからだ/くみあいきかんし/だしつづけるのも/たたかいだ
の三首を挙げた。一首目は、機関紙をつくるにあたっての最も肝心な視線と機関紙の果たす役割の2つの視座を表出しており、定型短歌では散漫になるところを行分け短歌ならではの特性を生かしての表現となっている。二首目は、作者の機関紙発行に対する情熱を対話形式も運用しながら平明に描出。三首目は、労働組合運動は団体交渉とか集会等だけが闘争ではなく、その縁の下の力となっている機関紙を定期的に継続して発行するのも大変なたたかいなのだと位置づけ、そのことを自覚した作者の意思と決意が示されていた。
ところで、これらの作品には表現内容だけでなく、短歌としての形式が維持されていた。言わんとしていることは、行分け自由律短歌と短詩との相違についてである。自由律ということで際限なく用語が多用されると短詩との区別がつかなくなる。表現も安易になってしまいかねない。短歌としての音数律・三十一音を堅持しながら、定型と異なった韻律の創造の格闘が求められていると思う。それらを踏まえながらも、将来を期待して佳作とした。
(5)俳句 【俳句】望月たけし
佳作に堀木直子さんの作品を推しました。
春宵の約束あったかも知れず
若葉風押してはじまる太極拳
晩秋の海が見たいと言ったから
朝顔やひとり暮らしの隠し鍵
日常語使用の平明な表現。やわらかな、わかりやすい句と言えます。特に二句目、「若葉風押して」は、太極拳が始まる前の動作が実にリアルに描写されていると思いました。また四句目の「ひとり暮らしの隠し鍵」もなかなか説得力のある一句でした。
大根の花より日暮れはじまりぬ
文鎮の代はりに置いて夏みかん
つつつつとシテの擦り足冬に入る
嘱目作品としては申し分のないうまさです。ただ残念なのは、モチーフとして、自治労連・自治労連共済20周年の「今」が作品に反映されていないということです。全労連第24回臨時大会で大黒作治議長が「非正規切り」とのたたかいや、総選挙での課題について「要求実現へ政治転換」をめざす、と発言していました。堀木さんの作品が俳句技術では充分なのに「入選」へいま一歩足りなかったのは、もっと社会的課題を引き寄せるという積極性でした。たった17文字の俳句は、不向きだと言われてきた社会的主題とぶつかり、衝突するたび、働く者のリアリズムを前進させてきました。俳句をもっと強く美しい日本語の、国民文芸に発展させるため、さらに努力をしましょう。
(6)川柳 該当作品なし
(7)歌
【講評】自治労連副中央執行委員長・山口毅、ユニオンニューフィル千葉
衛都連合唱団『絆―きずな』と、最後まで、どちらがいいか…2作入選か。2作佳作か。ユニオンニューフィル千葉の審査委員は「技術的に言えば、衛都連合唱団がすばらしい。しかし、たたかいの中から生まれた歌もいいですよね」と高く評価します。
組曲『わたしは保育士』は、たたかいの現場から出てきた歌ということが最大に評価され、入選を果たしました。「お母さん わたしのことなら心配ないよ おねえちゃんと一緒に がんばるよ 十七の娘の励ましに支えられ 私は原告になりました」と親子の励ましが生き生きと描かれ、「娘よ 私はなにも残せないけど お母さんは二人が 誇りなの」に、思わず目頭が熱くなります。聞く人が、中野区保育争議の現場に遭遇したような気持ちになります。組曲『わたしは保育士』の入選で、全国のたたかいの現場から、新しい歌が次々と生まれることを期待しています。
(8)マンガ 【講評】高宮信一
金森利治さん作、四コマシリーズを佳作に選びました。作品はいずれも日々のニュース、職場の話題をネタに旺盛な反骨精神を発揮して笑い、共感に結び付けています。
「役所のぬるま湯」論に対して「煮え湯のような状況」で耐えている職場。「いくら努力しても昇給しない」。そんなことない。「過労死すれば2号特進するよ」。
「成果が認められてノーベル賞、成果が嫌われる督促、差し押さえ」など打てば響くように四コマで切り返しています。
審査のなかでは「文字が多いのでは」の発言もありました。ダブル言葉、削っても理解できる吹き出しなど、言葉を削ってみましょう。
四コママンガは野球の打者に例えられます。常に出塁できるとは限りません。3割ヒットが出ればいいかな、です。
(9)研究論文 応募なし
自治労連・自治労連共済20周年記念
文芸・研究論文コンクール審査結果発表
(1)短編小説
入選 K・I 「祖父の足跡」(神奈川・横浜市従)
佳作 内藤孝吉「赤い道」(埼玉・春日部市職労)
(2)ルポルタージュ 応募なし
(3)詩
| 入選 |
上垣優子「きっとはじまる」(大阪・吹田市関連労組) |
| 佳作 |
大川久美子「布の街」「朝の跳躍」(東京・足立区職労)
中島昌宏「帰り道」(大阪・羽曳野市職労) |
(4)短歌
佳作 階見善吉「きかんし」(広島市職労)
(5)俳句
佳作 堀木直子(東京・目黒区職労)
(6)川柳 該当作品なし
(7)歌
入選 作詞・中嶋祥子、作曲・平良春徳
組曲「わたしは保育士」(東京公務公共一般労組)
佳作 作詞・衛都連合唱団、作曲・たかだりゅうじ
「絆―きずな」(大阪自治労連)
(8)マンガ
佳作 金森利治「結成20年目の春です!!」ほか6点
(東京・品川区職労)
(9)研究論文 応募なし |
〔詩の部〕
上垣 優子(大阪・吹田市関連労組)
きっと はじまる
早朝の川から吹き上げるつめたい風に
するどく首すじを射られ
マフラーを忘れたことに気づく
3・12 09春闘全国総行動
「おはようございます」
「派遣切りは許しません」
「すべての労働者に賃上げを!」
ビラ配る声が ずらり並んで
やまびこのように連なるけれど
ビルディングに吸いこまれる人たちの眼は うつろに漂う
「なにを朝からわめいているのだ」
「ヒンコン?カイコ?ハケンギリ?貧乏くさい」
うつろな眼が無表情に訴え 過ぎていく
たじろぎながら 私はビラを配るのだが…
押しよせる うつろなまなざしの中に
時おり光る共感の視線を 見逃すまい
遠慮がちに差し出される指先を 見落とすまい
痛めつけられる人々への共感を
はぐくみ始めたその視線に
連帯のまなざしを送ろう
労働組合のメッセージを
うけとる決意をこめたその指先に
1枚のビラを優しくすべりこませよう
そうだ
この1枚から きっと
なにかが始まるのだから
〔短編小説の部〕
K・I (神奈川・横浜市従)
※ご本人の希望により本名を掲載しておりません。
祖父の足跡(そくせき)
「お前、もっと小さくなかったか」
私の右側でコタツに入っている爺さんが、また同じことを言う。小学生だった頃の記憶しかないのか、あるいは別の誰かのことを言っているのか。でも婆さんの葬式以来、十年も会っていなかったのだから無理もない。
タンスの上にある、二つの遺影が目に止まった。その上の古ぼけた時計が、もう十時をさしている。
「確か……もっとこう、丸い顔してなかったか」
爺さんはそう言うと、座椅子に座ったまま身体をひねり、ポットからコップにお湯を注いだ。老人はお茶をよく飲むものだが、爺さんは焼酎のお湯割りしか飲まない。しかも、朝からずっと焼酎を飲んでいる。だから家には、焼酎の香りが染み付いていた。
表通りをトラックでも通ったのか、家がかすかにミシミシと揺れた。爺さんは意に介さぬように、コップに口をつける。私は自分で買ってきた缶ビールを、コップに注いだ。
「お前、もう嫁さんはもらったのか」
私が誰なのかいまいち理解してないようだが、また同じ話をする。
「早く所帯もって、子ども作ったらいい。やる気が出て楽しいぞ」
まあ、そればかりは相手が要ることなので仕方ないが、孫のことを思ってくれる気持ちは嬉しい。
九州は、鹿児島の出。かといって鹿児島弁を話すわけではなく、いかにもといった豪快な雰囲気もない。焼酎が大好きというのが唯一、九州人らしいところだ。それが父方の祖父、秀雄である。
* * *
鹿児島県出水(いずみ)の、典型的な貧しい農家。そこの七人兄弟の五番目として、大正七年に秀雄は生まれた。両親は若くして相次いで亡くなったため、秀雄は小学校を卒業すると、兄弟と一緒に農作業や住み込みの奉公で働き、その日暮らしの生活を送った。
そのうち、日本は急に灰色の時代に入っていく。世界恐慌による不況で失業者が街に溢れ、軍部が次第に力を持ち、日本は戦争への道を進んでいった。
盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まり、日本が泥沼の戦争に足を踏み入れた頃。二十歳になった秀雄の元にも、他の青年と同様、召集令状が届く。当時の国民の義務、兵役である。
兵隊としての秀雄の行き先は、当時日本領だった台湾。その南端の高雄に駐留する、陸軍の高射砲部隊が配属先だった。当時の日本人にしては大がらな百七十センチという身長と、農作業で鍛えた頑健な身体が、砲兵に向いていると判断されたのだろう。
「兵隊に行くとなあ。早メシ、早グソちゅうて……」
新兵の頃は、訓練と称するシゴキと、雑用と称する使い走り、そして先輩や上官による体罰に明け暮れる毎日だったそうだ。となれば、楽しみは食事くらいしかない。しかしその食事も、ゆっくりくつろいで食べることなど夢のまた夢。
日本軍の食事は、班ごとに摂るのが基本だった。その時は、下っ端の兵士が配膳、片付けまで全て行う。このため最下級の兵隊は、配膳が終わって先輩の許可が出て、それからとりあえずメシをかき込む。そしてそれを、味噌汁やお茶で流し込むのだ。そうやって早く自分の食事を終わらせて、先輩兵士や上官の雑用に走るわけである。
* * *
慌しい食事の後、秀雄は班員の食器を片付けていた。歯を磨く時間などない。爪楊枝を使う暇もないから、口の中で舌をシーシー、チッチッとやりながら、歯につまった食べカスを取る。すると、そばにいた古兵が、
「貴様!」
と、いきなり秀雄の胸ぐらをグイと掴んで殴りつけた。秀雄は理由が分からないまま、直立不動の姿勢で頬に拳を受け続ける。どこか切れたのか、暖かくて塩気のある液体が、口の中に流れた。
「舌打ちなんぞしやがって」
チッチッという音が誤解されたのだ。
またある時には、違う方法の制裁が加えられる。同じ班の新兵がヘマをやらかした時は、こうだ。
「全員二列で整列!」
こんな号令で新兵同士が向かい合い、そして一斉にビシ!とお互いを殴打し合う。集団行動だというのと、軍人精神を叩き込むという理由で、誰か一人の失敗が連帯責任になって返ってくるのだ。軍隊というのは、このように不条理がまかり通る世界である。
「顔がこんな、アンパンみたいに腫れてなあ」
爺さんは実際にチッチッとしつつ、両手を自分の頬にやりながら話す。思えば爺さんは、私が子供の頃にも、食事の時はいつもシーシー、チッチッとやっていた。
「でも台湾は良かったぞ。暖かくて」
台湾は沖縄よりも南でフィリピンに近いため、かなり暑い。そんな気候だから、非番の時は、兵隊は上半身裸で過ごしていたそうだ。
「ここらへんが真っ赤になって、皮がボロボロむけてな」
爺さんは、肩の辺りをさすりながら言う。しかし、訓練中となると、裸になるわけにはいかない。
「弾はこんなにでっかくて、重いんだぞ。二十八サンチ榴弾砲ちゅうて……」
それは記憶違いで、実際は七十五ミリ高射砲だ。まあ大きさはどうあれ、暑いなか弾運びや弾込めの訓練を続けるので、誰もがあせもに苦しんだそうだ。
「ほら、壁にペンキとか塗ったりするアレがあるだろ……。あれで、こうやって全身に薬を塗りたくるんだ。でも、さすがにここは参ったな」
爺さんは、自分の股間を指差して、ハハハと笑った。
* * *
そのうち日本は、アメリカとイギリス、そしてオランダにも宣戦布告し、とうてい勝ち目のない大戦争に突入する。幸い秀雄は、その直前に兵役満期となり、除隊することができた。しかし、故郷に帰っても職はない。そこで秀雄は、兄を頼って満州に向かった。
満州国は、日本がソ連からの防波堤として謀略で攻め込んで強引に建国させた、中国大陸の東北部にある広大な地である。そこでは、多くの日本人が、開拓団として移民していた。
秀雄の兄は、満州の通化(つうか)省にある会社に、技術者として勤めていた。その兄の口ききで、秀雄はその会社で働くことになる。もし仮に、秀雄が九州に戻って生活できていたとしたら、戦争後期に再度召集されて、苛烈な南方戦線に送られて命を落としていたかもしれない。
仕事の内容は、資材の納入や帳簿管理。下っ端の工員として働くのは、現地の中国人(満州人、一般的には「満人」と呼ばれていた)がほとんどを占め、日本人は彼らをこき使っていた。
それからほどなくして秀雄は、知人の薦めで、フミという日本人の女性と見合いし、結婚することになる。フミも秀雄と同様、通化に移住していた姉を頼って渡満していたのだ。そして結婚を機に、会社の日本人社宅で生活することになった。
「満州はものすごく寒くてなあ。台湾はよかったぞ」
つらい兵隊時代の記憶も薄れているのか、台湾ばかり褒める爺さん。台湾だって台風が来て大変じゃないかと聞くと、
「満州は寒いからなあ」
と言う。確かに中国大陸の東北部は、夏は灼熱、冬は酷寒の厳しい気候である。真冬になると、零下二十度などはザラ。鹿児島育ちの爺さんには、よほど満州の寒さがこたえたようだ。
* * *
ある、雪の降る夜のこと。
会社から社宅に向かって、秀雄はポケットに手を突っ込んで、背を丸めて歩いていた。後ろでザアザアという物音がするので振り向くと、闇の中を一台の馬車が向かってくる。ザアザアというのは、荷台に流れた馬の汗が凍ってツララになり、地面をひっかく音だ。秀雄は道端によけて馬車をやりすごすと、荷台の後ろの手すりに飛びついた。荷物と秀雄を乗せたまま、馬車は雪の中をガタゴトと進む。
ほどなくして、社宅が近づいてきた。適当なところで、秀雄は雪の積もる地面にソッと飛び降りる。が、なんと荷台の手すりが凍り付いていたせいで、両手の指の皮が、ベロンとはがれてしまったのだ。それでも、あまりの寒さのせいで痛みが感じられない。社宅に着いて戸をガンガンと叩くと、フミが小窓の曇りを拭いて秀雄を認め、戸を開いてくれた。部屋に入って暖かくなると、途端に両手がズキズキと痛み出す。両手の指からは血がにじみ出てきた。
翌々年の春。
すでに日本の敗戦は決定的で、太平洋で行われてきた戦闘が日本本土に近づいていた。日本近海の海上交通は、米軍の潜水艦や爆撃機によって、ほとんど途絶。しかも、太平洋戦線に次々と兵力を引き抜かれ、満州の日本軍(関東軍)兵力は危険なほどに弱体化していた。そこで日本軍は、在満の成人男子を動員することにした。そのため秀雄も、地雷を持って戦車に飛び込むという、自殺攻撃の訓練をさせられることになる。
「こう這いつくばって、戦車に近づいていくわけだ」
初夏の草いきれにむせながら、ほふく前進で目標にじり寄っていく。ほんの一日の訓練で、ヒジとヒザが擦りむけてしまったそうだ。ちょっと姿勢が高いと、威張りくさった兵隊に
「アタマが高い!」
と、棒で頭をピシャリと叩かれる。ただでさえ大柄な爺さんは、目立って余計に叩かれただろう。
「あんなことしても、戦車に近づく前に機関銃でやられておしまいだよ、ハッハッハ」
そんなことを現役兵の前で口にすれば、それこそ顔がアンパンになるほど殴られたに違いない。
* * *
その夏、八月九日。
ソ連の大軍が、国境の日本軍陣地を各所でひねり潰し、満州になだれ込んだ。危険を察知した日本軍の高級将校や家族は我れ先にと後方に逃げ出し、他の部隊も住民を置き去りにして後退した。そして日本軍は、ソ連軍の侵攻を妨害するため、橋を全て落としていく。このため川で行く手を阻まれ、悲観して集団自殺をしたり、無理に渡河を試みて流される民間人が大勢いた。これではソ連軍に殺されたのか日本軍に殺されたのか、分かったものではない。他にも、避難の途中でソ連軍の攻撃に遭って殺されたり、略奪暴行を受けるという事件も相次いだ。中国残留孤児が多く出たのも、この頃である。
通化の駅や航空基地は、後方の朝鮮へ逃げる軍人や、その家族でごった返していた。しかし、民間人には情報が伝えられず、秀雄らはどうすることもできなかった。八月十五日に日本は連合軍に無条件降伏したが、それでもソ連軍は、満州や樺太への侵攻をやめなかった。日本が無条件降伏してすぐ、満州国は解体された。
通化はソ満国境から離れていたため、秀雄らはソ連軍による攻撃には遭わずに済んだ。しかし日本の敗戦によって、それまでの主従関係が逆転した。満人、つまり中国人が、日本人に対して横暴を働くようになったのだ。もともと住んでいた土地を追い出され、その後もさまざまな差別や暴力に苦しんできた彼らにしてみれば、日本人こそまさしく侵略者だったろう。秀雄の周りでも、それまで威張り散らしていた日本人が、中国人の報復を受けることもたびたびあった。やられたほうは、ただ殴られ、蹴られるままにするほかはない。
「俺は、別に威張ったり殴ったりしなかったから、何もされなかったよ。普段から、弱いもんいじめなんてしちゃダメだな」
それまで部下の中国人に対して特に威張ることもなく、公平に接していた爺さんは、幸いそういったリンチに遭うことはなかったそうだ。そんな爺さんの血が受け継がれているのだと思うと、なんとなく安心する。
* * *
そのうち、戦勝国としてソ連軍が旧満州全土に進駐してくるようになった。そうなると、日本人は新たな恐怖に見舞われることになる。日本軍も中国大陸やフィリピンなどで住民に対して大小の悪事を働いたが、ソ連軍の兵士の質は、とんでもなく低かったのだ。
そのうち秀雄の住む社宅にも、ちょくちょくソ連兵がやってくるようになった。やってくるというのは、なにもソ連軍の部隊が正式に訪れるというものではない。ソ連の不良兵士が連れ立って基地を抜け出し、勝手にやってくるのである。目的はもちろん、金品の略奪、そして女性がいたら拉致をするのだ。
当時のソ連軍には、電気も水道もないような田舎出身の兵士が多かった。そのため彼らは、初めて目にする文明の利器を、せっせと略奪して持ち帰った。中には、銀色に光るのが高価に見えたのか、あるいは無限に水が出てくる魔法の道具と思ってか、水道の蛇口を外して持っていくソ連兵もいたという。特に要求されたのは、腕時計。当時も、日本人はたいてい腕時計をしていたので、彼らはそれに目をつけたのだ。
社宅では、社員が交代で見張りを立てた。そしてソ連兵が近づいてくると、
「露助が来るぞ!」
と叫んで合図する。露助(ろすけ)とは当時の、ロシア人に対する蔑称だ。それっとばかりに、貴重品を部屋のあちこちに隠すので、社宅中が騒然となる。家族の女性たちは、すでに全員丸坊主になっており、男性と同じ服を着て男装していた。さらに顔中に、炊事で使ったカマドの灰を塗りたくる。
ドカドカと、社宅に数人のソ連兵が踏み込んでくると、観念して、
「もうアタシ嫌だ!」
と、自殺をしようとする女性もいた。仕方なく仲間で連絡し合い、社宅の部屋と部屋の間の壁に開けておいた穴から、女性を隣室に逃がす。押入れに隠れていると、すぐに見つかってしまうからだ。
ある日の、ソ連兵による押し入りの時のこと。秀雄に目をつけた薄汚れたソ連兵が、ロシア語で
「腕時計よこせ」
と詰め寄ってきた。ないと手真似で言うと、その兵士は、小銃の筒先を秀雄のシャツのボタンとボタンの間にねじ込み、なにやら言いながら、なおも要求してくる。他の同僚も、銃をつきつけられたままポケットの中を探られている。秀雄は諦めて、ポケットに隠していた腕時計を差し出した。その兵士は、腕時計を奪い取って耳に当てる。そしてカチコチという時計の音を聞いて、
「これは音がするから壊れてる」
と、時計を突き返してきた。
「あちこちひっくり返されて大変だったよ。いつ撃たれるか分からんしな」
相変わらず、目を細めながら話す爺さん。よく考えてみると、ちょうどそんな大変な時期に、親父が生まれたことになる。さぞ混乱した状況だったろうに、よく無事に出産できたものだ。
「お前も早く所帯を持ったらどうだ。子どもが出来ると楽しいぞ」
またその話だ。
* * *
そうこうするうち、厳しい冬が訪れる。
一度は旧満州全土を支配したソ連軍も、莫大な戦利品や数十万の日本兵捕虜を連れて撤退していき、代わりに中国軍が旧満州地区に進出してきた。しかし、もともと食料や日用品が豊富ではない当時のこと。冬になると暖房用の燃料が大量に必要になるため、それまではどうにか暮らしていた日本人は、急に苦しい生活に追い込まれる。このため、日本人の餓死や凍死が相次いだ。
秀雄らは、肉体労働の使役で得たわずかな金で食料や燃料を買ったり、中国人の家に物乞いをしに行って、どうにか命をつないでいた。しかし慢性的な飢えと寒さで、社宅では何人もが死んでいく。特に幼い子どもほど、弱かった。極度の栄養失調になると、顔はやせ細るのではなく、逆にむくんでふくれる。そんな子どもの死に顔を、何度も見てきた。
秀雄は、社宅の庭にスコップで穴を掘って死体を埋める作業を、幾度も経験した。大人の男が掘るとは言え、相手は凍りかけた土だ。死体埋葬だけでも、かなり体力を消耗する。このため死体を埋めた者が、次には埋められる番に回るのも珍しくなかった。
「その頃、パーロが来たんだよ」
パーロとは、当時の中国共産党軍の戦闘部隊、第八路(はちろ)軍のことだ。それを八路、すなわちパーロと呼んでいた。当時は、毛沢東率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍が、一進一退の激しい内戦を繰り返していた。だから実際には八路軍なのか国民党軍なのか、あるいは民兵か匪賊かは分からないが、爺さんがパーロと言うのだからそうなのだろう。
* * *
ある冬の午後。八路軍の小部隊が、いきなりドカドカと社宅に乗り込んできた。彼らは一室を占拠し、男たちを廊下に集めた。そして一人ずつ、部屋に連行されていく。八路軍が日本人を兵隊に取るという噂があったが、果たしてこれがそうなのか、あるいは国民党への協力者を逮捕しようとしているのか、見当がつかなかった。
廊下で順番を待っていた秀雄の耳には、中国語で怒鳴る声と、何かを叩いたりひっくり返すような音が聞こえてきた。そして次には、ぐったりした同僚が二人の八路兵に抱えられ、廊下に無造作に放り投げられる。そんな状況が、しばらく続いた。ドタリと廊下に横たわる同僚の顔は腫れ上がり、形がすっかり変わってしまっている。中には、そのまま冷たくなった者もいた。それまでの飢えと寒さで消耗していた身体が、今の殴打のショックで、限界を超えてしまったのだろう。秀雄は寒さに震えながら、
(俺も死ぬかもしれないな)
と思った。
いよいよ、秀雄の番がきた。八路兵に肩をグイと押しやられ、取調べ室に入れられた。部屋の中では、リーダー格らしき八路兵が、木の棒を持って立っている。秀雄はその前に立つと、そのリーダー格を睨みつけた。八路兵よりも、秀雄のほうがはるかに背が高く、相手を見下ろす形になる。それが癪に障ったのだろう。八路兵は顔を真っ赤にして、取り調べもなにもなく、いきなり棍棒を秀雄の胸に振り下ろした。
「なめられちゃいかんちゅうてな」
私だったら、そんなことはとてもできないだろう。しかもその時は、爺さんは乳飲み子を抱えていた。それも、私の親父だ。
「もうナニクソと思ってなあ……」
爺さんは満州時代に中国語を勉強したせいで、いまだに中国語はよく覚えている。当時の八路兵とのやりとりについても、中国語をまじえて喋ってくれた。
* * *
秀雄は両足を踏ん張り、胸部の痛みをこらえて精一杯胸を張った。そして、なおも八路兵を睨み返す。真冬のために厚着をしていたこと、さらに順番の最後のほうだったため、八路兵が疲労していたのが幸いしたのだ。
「この野郎!」
相手は余計に怒り狂い、渾身の力で棒を振り上げた。脳天に一撃を食らえば、死んでしまうだろう。さすがに秀雄も観念した。
すると、まさにその時。
「やめろ!」
八路兵の上官らしき一団が、ドカドカと部屋に入ってきた。途端に、それまで大威張りだった八路兵が、一斉に直立不動の姿勢になる。後から現れた一団は、暴行を働いた兵隊たちを大声で怒鳴りつけ、彼らをまとめて帰って行った。おかげで、秀雄は命拾いをした。
八路兵が撤退した後、秀雄らはフラフラになりながら、再び死体の埋葬をしなければならなかった。日が暮れると、日中に一度ふやけた地面が凍り、スコップでは穴が掘れなくなってしまう。
「ええと、お前は……。ええと、誰つうたっけ」
七十年前の出来事はよく覚えているのに、私のことは忘れてしまっている。
「あれ、お前、もっと小さくなかったっけなあ」
また同じ話が繰り返される。
爺さんは、コップに焼酎を注ぎ、座椅子に座ったまま上体をひねって、ポットのお湯を注いだ。部屋に、ほんわりと焼酎の香りが漂う。私は、ぬるくなったビールに口をつけた。
* * *
厳しい冬が終わり、春になっても、旧満州の日本人は苦しい生活を送っていた。秀雄の同僚やその家族も、寒さと飢え、そして病気によって何人も死んだ。
やがて暑くなり、過酷な真夏を過ぎた頃、ようやく秀雄らは日本に引揚げることになった。と言っても、現代の旅行のような快適なものではない。客車などとんでもなく、貨車にギュウギュウに詰め込まれるのだ。貨車は屋根があればいいほうで、屋根がない貨車が多かった。屋根があっても穴だらけで、機関車の煤煙をかぶってしまい、引揚者は一様に顔を黒くしていた。自分だけの移動ならまだしも、秀雄のように病人や子どもを抱えた家族は余計に大変だった。
列車が途中で駅に停車すると、大勢の中国人が、恨みのこもった眼差しで睨んだり、あるいは嘲笑の言葉を投げかけてくる。中には荷物を奪われたり、石を投げられることもあった。引揚者は食料や衣類も僅かしか持っておらず、少しの体調不良がすぐ、死に直結した。それでも、酷寒のシベリアの奥地に連行され、何年も強制的に働かされた数十万の日本兵捕虜に比べれば、まだ幸せだったかもしれない。日本に帰れるという希望が、目の前にあったのだから。
秀雄らは苦しい鉄道での移動を終え、中国沿岸部の葫芦島(ころとう)にたどり着いた。そこから貨物船の船倉にスシ詰めにされ、博多に向かう。博多までの航海は数日だったが、博多には太平洋の各地から引き揚げ上げ船が集まっており、検疫や下船手続きの順番待ちのため、何日も停泊した船上で足止めを食うことになった。
「あん時、アレが死にそうでなあ」
博多に停泊中の船の中で、爺さんの息子、つまり私の親父は栄養失調で死にかけていたという。親父の母親も、栄養失調や引揚げ時のごたごたで身体を壊して乳は出ないし、乳児が口にできるようなものはなかったそうだ。周りの群集とて同じことで、みな自分のことに精一杯。他人にまで救いの手を差し伸べようとする人は、いなかっただろう。
* * *
息子はそろそろ一歳の誕生日を迎えようとしていたが、もう何日も泣き声を上げず、かすかに息をする程度にまで衰弱していた。何か飲ませないと、このままでは死んでしまう。
秀雄は息子を抱き、飯ごうを持って甲板に上がった。甲板には仮設の炊事場が作られていたが、引揚者への食糧配給のために一日中使われており、一般人が勝手に入り込むことはできない。仮に近寄っても、気の荒い船員に追い返されるのが関の山だ。秀雄は仕方なく、あちこちから廃材などを拾い集め、甲板で火を起こした。飯ごうに入れた水と僅かな米で、重湯を作るのだ。
港内の景色を眺めながら雑談をしていた引揚者の男たちが、おいおい、というような表情で、遠巻きに視線を投げかける。
「おめえ何やってんだ!」
どこで見ていたのか、引揚者を掻き分けながら、小柄だが屈強そうな船員がすごい剣幕ですっ飛んできた。掴みかかる船員に、秀雄は食ってかかった。
「息子が死にそうなんだ!」
「なにい!」
船員は秀雄と息子を交互に睨みつけながら、胸ぐらを掴む手にさらに力を入れる。いくら大がらだとは言え、栄養失調の人間がかなう相手ではない。それでも秀雄は、船員の顔を睨み返した。
船員はちょっと思案しているふうだったが、
「ちょっとこっちに来い」
と、そのまま秀雄を船内に引きずっていった。秀雄は自分のことよりも、船倉でグッタリしているフミにどう説明していいものかと、悲しくなった。
狭い通路を通ってたどり着いたのは、船員用の炊事場だった。
「あんた、ここを使いなさい。ほかは火気厳禁だ」
船員の温情か、それとも気まぐれか。どちらにしろ、秀雄の息子は、この重湯で命をつなぐことができた。
「ちょっと、厠に……」
爺さんが、よっこいしょと言いながら立ち上がった。かすかに畳が歪み、タンスが揺れる。下から見ると、爺さんがとても大きく見える。この大柄な体躯が、あの当時の爺さんや親父の命をつないだのだろう。よたよたとトイレに向かう爺さんの横顔を見ると、頬が濡れていた。
* * *
鹿児島に引き揚げてから数年、秀雄らの家族三人は、僅かな畑を借りて、貧しく農家暮らしをしていた。しかし数年後、フミの病気が重くなったため、フミの姉を頼って一家で東京に移り住んだ。
東京では、秀雄はいくつかの仕事を転々とすることになる。勤めた会社が、次々と倒産してしまうからだ。フミは、満州で壊した身体が癒えぬまましばらく床に臥せっていたが、やがて三十五歳という若さで亡くなってしまう。
「俺は学がないからな。やっぱり、ちゃんと学校は出とらんと」
トイレから戻った爺さんは、話題を変えた。あるいは、トイレに行ってそれまでの話を忘れてしまったのかもしれない。
「そう言えばお前、どこに勤めてるんだ」
市役所だと言うと、
「なに、百姓。どこで百姓やってるんだ」
今まで何度も言っているのに、これだ。
ちなみに爺さんの手は、かなり大きい。身長こそ私のほうがいくらか上だが、手は勝てない。爺さんの左手に自分の右手を合わせてみると、爺さんのほうが一回りは大きいのだ。
「なんだお前。女みたいな手してるな」
いや、爺さんの手が武骨で大きすぎるのだ。だが、右手の人差し指がない。それでも握手をすると、まだまだ力強い。
「畑仕事と兵隊で鍛えたからな」
爺さんはそう言って、またコップに口をつけた。私もつられて、ビールをグイと飲み干す。
* * *
当時の東京の下町には、民家や町工場が密集していた。秀雄が一時期勤めていたのは、その中の鋳物工場だった。そこでは、一抱えもあるような大きな型にアルミを流し込み、さらに上から型をかぶせるという二人がかりの作業を、毎日続けた。上下の型をきっちり合わせるためには、最後は手で上下の型同士をくっつけるという、危険極まりない手順が必要だった。しかも生産性を上げるため、ゆっくりやっている暇もない。昼食を摂るにも、型の前に立ちながら、相方の作業中に弁当箱から急いでかき込むのだ。このため、指を挟む事故が頻発した。
かくいう秀雄も、右手を型に挟んでしまったことがあった。すぐに型を引き上げて指を引き抜けば良かったのかもしれないが、そうしていると製品をひとつダメにしてしまうし、さらに生産数も減ってしまう。このため秀雄は、右手の人差し指を失った。
「そりゃ、痛かったよ」
爺さんは、自分の右手を見せながら、そんな話をしてくれた。ちなみに、生産至上主義の会社とは言え、指を切断した社員にはそれなりの見舞金が支給された。中には、生活費に充てるために、わざと手を挟む同僚もいたらしい。その同僚は同じ事を何度も繰り返し、指をほとんどなくしてしまったそうな。
「あの頃は毎晩飲んでたけど、それからは、ちょっとなあ」
今もこうやって焼酎を飲み続ける爺さんだから、昔もさぞ飲み歩いたことだろう。しかし指を切断してからは、飲みに行くのをやめてしまったそうだ。
「飲み屋の女の子に手を見られるのが恥ずかしくってな。どうしても仕方なく行くときゃ、こう、左手でコップを持つんだよ」
しかし、さすがに爺さんも今夜は飲みすぎている。
「何も楽しみがないんだから、なあに、婆さんもあの世で許してくれてるよ……」
そう言いながら、またコップに口をつける。私はコタツから這い出して、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
* * *
やがて秀雄は、良子という女性と再婚。しかし、良子との間には子供はできなかった。その間にも、秀雄は工場や、警備会社などを転々とする。そのうちに一人息子は、夜間高校に通いながら働き出した。その息子はやがて独立して結婚し、四人の子供をもうけることになる。
その後秀雄は、ある家電販売会社に転職した。そこでは、満州時代と同様、納入や伝票の管理をすることになった。
「勤め人はな、大変だよ。俺よりぜんぜん年下の上司に、お前なにやってんだちゅうて、怒鳴られて……」
そう言いながらも、爺さんは目を細めている。どう見ても、あまり目端が利くようには見えない。なので、会社ではうまく上司に取り入ることができなかったのだろう。
また納入や伝票管理だなんて、昔取った杵柄だねというと、爺さんはニヤリとした。
* * *
秀雄もとうとう、定年退職の日を迎えることになる。
その日の朝礼では、部下を集めて、課長が訓示をしていた。定年退職だからと言って、よくドラマであるような花束の贈呈や人間アーチでの送り出しがあるでもなく、さらに定年をねぎらう言葉もなかった。
「ということでみんな、今日も一日がんばるように」
課長は大声でそう言って、朝礼を締めくくった。が、すぐ思い出したように、
「ま、もう関係ない奴もいるが」
と、秀雄のほうを向いて言った。その時。
「課長、今の言い方はひどいと思います!」
一人の若い女性が大声で言った。
「あん時は嬉しかったなあ」
目を細める爺さん。本当に嬉しかったのだろう。
そんな頃私は、爺さんに東京のいろんな所を案内してもらった。中でも覚えているのが、皇居。年始の一般参賀の時である。
「大きくなって皇居も見たことないなんて、恥ずかしいからな」
そう言って連れていかれた時は、ガラス張りの建物の中に、天皇と皇后や側近がいて、こちらに向かってにこやかに手を振っていた。爺さんも他の参賀客と同様、予め配られた日の丸の旗を振っていた。
あんなに爺さんを苦しめた当時の日本の最高責任者に、どうして笑って旗など振れるのだろうかと、まだ子どもだった私は不思議に思ったものだ。
* * *
その後、秀雄は良子との寂しい生活に入った。小さい頃は年に何度も遊びに来た孫たちも、成長と共に寄り付かなくなっていく。たまに息子の家に電話をかけ、電話に出た孫に
「たまには遊びに来いよ」
と言っても、孫たちは自分の遊びや勉強に忙しく、祖父母の家に行くことはなかった。そんな孫たちは、時には祖父母さえも疎ましく思うか、あるいは存在さえ忘れてしまうようになる。
そして良子は、秀雄を残して先にあの世へと旅立った。しかし、葬式でもないと、秀雄の家がにぎやかになることはなかった。それから秀雄は、独りでひっそりと暮らすようになる。
「あれ……お前、ええと誰だって?」
なぜか無性に爺さんに会いたくなってこうして訪れても、私のことはほとんど忘れている。話の内容も、ところどころぼやけてきているし、同じ話を何度も繰り返す。まだまだ聞きたい話もあるし、聞いたことのない話もあるだろう。でもこれ以上は、爺さんの記憶を引き出すことができないのだ。なんでもっとちょくちょく来なかったんだと、後悔してももう遅い。
ビールの酔いが回ったのか、やたらと自分を責める考えしか起こらない。爺さんは相変わらず、わずかに笑みを浮かべながら、くいくいと焼酎を飲む。コタツの上の刺身が、だいぶ乾いてしまっている。しばらく沈黙が続いた。
そのとき台所のほうで、ガサガサ、カタカタという音がした。
「ああ、ネズミだろ」
爺さんは意に介さぬように、コップに口をつける。私はコタツから這い出て、引き戸を開けて台所を見てみたが、すでにその姿はない。
「いいんだよ、もうネズミぐらいしか友達がいないんだから」
寂しく笑う爺さんの横顔は、親父にそっくりだった。
〔歌の部〕
作詞・中嶋 祥子
作曲・平良 春徳(本名・小林 雅之)
(東京公務公共一般労組)
組曲『わたしは保育士』
中野区保育争議 四部作
2004年、中野区の公立保育園の民間委託化攻撃で、非常勤保育士全員が解雇されました。
闘いに立ち上がった原告4人の保育士たちが、裁判所の法廷で語った証言のなかから、4つの歌が生まれました。
第一曲 「わたしは保育士」
保育という仕事は、未来の宝である子どもたちを育てることです。
保育という仕事は子どもの未来の姿を夢みることです。
そんな子どもたちといっしょにすごせる保育士の仕事を誇りに思います。
わたしは保育士
作詞 中嶋祥子
作曲 平良春徳
保育という仕事はね
未来の宝を育てること
大事な大事な仕事です
すくすく育つ子どもたち
いっしょにすごせる保育士は
なんて素敵なことでしょう
保育という仕事はね
未来の姿を夢みること
楽しい楽しい仕事です
ぐんぐん育て子どもたち
いっしょにすごせる保育士は
なんて嬉しいことでしょう
第二曲 「プール遊び」
障害児たちに寄り添って、長年保育士として働いてきました。
ユキちゃんはあのとき三歳児、少し歩行が不自由でしたが、みんなと一緒に歩けるプール遊びが大好きでした。
プール遊び
原作詞 中嶋祥子
編詞/作曲 平良春徳
ユキちゃん ここまできてごらん
プールの中だよ あるこう
ほらね ふしぎだな 水は
ユキちゃん じぶんであるいた
ひとりで手をこぎ あるいた
ほらね うれしいな みんなと
ユキちゃん おおきくなったよね
おめめにおひさま ひかる
プールがだいすきな ユキちゃん
第三曲 「闘いってなに」
いわれなく解雇された私は、二人の娘の母親。子育てや生活苦に、先の見えない闇の中で、悩み続けました。
けれども、わが子たちに支えられて、私は闘う道を選びました。
闘いってなに
作詞 中嶋祥子
作曲 平良春徳
お母さん わたしのことなら心配ないよ
おねえちゃんと一緒に がんばるよ
一七の娘の励ましに支えられ
私は原告になりました
闘いって何 闘いって何 闘いって何
それは それは それは
自分の弱さと向き合うことなの
それとも 大切なものを守り通すこと
それは それは それは
自分を信じて今を生きること
それとも仲間を信じ未来みつめることなのか
闘いって何
娘よ 私はなんにも残せないけど
お母さんは二人が 誇りなの
第四曲 「先生だいすき」
人参の嫌いな子も、「食べると、きれいな、ほっぺになるわよ」と、先生の一言で食べられるようになりました。園児たちの活き活きとした保育所生活。そんなある日、悲しいお知らせを伝えなければなりませんでした。
先生だいすき
作詞・作曲 中嶋祥子
編曲・合唱曲 平良春徳
ほっぺの色はにんじん
まっしろい歯はごはん
黒いひとみは こんぶ色
みんなもらって 大きくな〜れ
先生だいすき 明日も残さない
うさぎになって ぴょんぴょん
かにさんみたいに チョッキチョキ
いっぱいあそんだ こどもたち
どのこの寝顔も 愛らしいね
先生だいすき 明日もまたあそぼ
待ちくたびれた こども
だいて背中を と〜んとん
いそいでお母さん かけてくる
今日も一日 元気でした
先生だいすき 保育園やめないで
私の意志ではありません
私の意志ではありません
こんな首切りゆるさない
きっときっと帰って くるからね
先生だいすき あしたもまたきてね
この組曲の最後に、合唱団は、舞台の前に進み出て、アピールをします。
「きっときっと帰ってくるからね」。子ども達との約束どおり、昨年の春、争議をたたかった保育士全員が職場に復帰することができました。ありがとうございました。
このたたかいの勝利を、すべての争議につなげて行きましょう!
オー!
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地域医療の充実、労働者派遣法の抜本改正
地方選出の国会議員に、地元地方組織から要請行動展開 |
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総選挙における「自公政権退場」の国民の審判を受け、民主党を中心とする鳩山連立内閣が発足する新しい政治情勢のもとで、自治労連の基本要求実現に向け、重点項目について、関係府省への要請行動を実施しました。また中央での新政府への緊急要請行動と並行して、地方選出の国会議員に対して、地元地方組織から要請行動を行いました。
労働者派遣法の抜本改正など要請
大阪労連阪南地区協 大阪自治労連
大阪労連阪南地区協議会は、10月15日、大阪第18区の民主党・中川治事務所を訪問。大阪自治労連阪南地協として和泉市職労と高石市職労が参加しました。
要請は、労働者派遣法の早期抜本改正や時給1000円以上・最賃引き上げ、泉州地域南部4病院(市立貝塚病院・市立泉佐野病院・阪南市立病院・府立泉州救命救急センター)の統合・縮小ではなく地域医療の充実を、介護・障害者施策の拡充、教育予算の大幅増など7項目の内容で行われました。
参加者から、「泉州南部4病院は、この地域における地域医療の中心的役割を果たしている。統合ではなく医師確保など充実させる計画にしてほしい」「雇用破壊の元凶となった労働者派遣法の早急な抜本改正、障害者自立支援法の応益負担の廃止を」など要請しました。また、30人以下学級の実現など「教育全国署名」運動への協力、紹介議員になることを強く求めました。要請をうけた秘書は「みなさんの要請は確かに議員に伝えます。国民生活を守るために努力します」と応えました。
阪南地区協は、この日をスタートに、16日に、比例の日本共産党・宮本たけし議員、22日に第19区の民主党・長安たかし議員への要請行動も行いました。
▲三宅阪南地区協議長(左)から、民主党の中川治事務所で熊崎秘書に要請書を提出 |
県民のいのち守る地域医療の充実を
自治労連愛媛県本部
10・22中央集会に愛媛から自治労連、医労連含め11人が参加しました。集会前に、愛媛選出の民主党衆議院議員3人への要請行動を実施。議員は予定が合わず政策秘書の対応になると、議員から直接電話があり、要請文書と同封の資料に対してのコメントまで付いており、今までにない対応でした。
病院組合委員長から、愛媛の地域医療が崩壊しつつある状況や、医師不足・赤字での経営形態見直しで自治体病院の統廃合・縮小が強行されようとしていること、西条市立周桑病院の実態、地元では「住民の会」ができ奮闘していることなどを訴えました。
西条市出身の白石洋一議員の秘書は、「医療のことは問題だと思っている。議員は週末にはだいたい地元に帰るので、地元の事務所へ連絡をして、ぜひ直接議員に話をしてください」と返答し、再度地元での懇談を約束して要請を終了しました。
自治労連愛媛県本部は、医労連と共同で、10月19日〜23日、県内キャラバンにとりくみ、併せて自治体病院へも訪問しています。
▲10・22中央集会に参加した自治労連愛媛県本部の仲間たち |
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療養休暇は「正規職員と同等に」
新型インフルエンザ |
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伊東臨職(静岡)
徳山競艇(山口)で前進回答が
新型インフルエンザが猛威をふるうなか、伊東市臨時職員労働組合は、「臨時職員の休暇の改善について緊急要請書」を提出し、市民のくらしと安全・健康を守るという責務を持った自治体の役割から、率先して制度を整備すべきと要請しました。その結果、「新型インフルエンザに限り『正規職員と同等の扱いをする』とし、感染した場合は3日間の療養休暇を、濃厚接触者として報告した場合は、3日間の有給の特別休暇を付与する」との回答を引き出しました。
徳山競艇従業員組合では、「来場者と働く者の命を守る」という立場で交渉し、新型インフルに感染した場合「原則として振替(勤務日の変更)で対応する」と回答がありましたが、引き続き交渉をしています。
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アスベスト(石綿)認定請求で画期的判断
静岡県・浜松 |
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8月31日、地方公務員災害補償基金の浜松支部長(鈴木康友市長)は、電気技術者(工事監理業務)が「悪性胸膜中皮腫」で亡くなり、遺族が2008年11月に、公務災害認定請求をしていた事案について「公務上」と認定しました。
アスベスト(石綿)関連事案が処理される地方公務員災害補償基金で、06〜08年の65件のうち認定された件数はわずか3件でした。
この事案の最大の争点は石綿労災基準にある「石綿ばく露作業に従事したことのある労働者」であるかどうかでしたが、浜松支部は工事監理業務で「ほぼ毎日、数時間程度行っている間に、アスベストを吸引したことが考えられる」として「公務上」と認定するという、今までにない画期的な判断を示しました。
今回の認定請求にとりくんできた浜松市職の土屋晴男さんは、「遺族の『父の死の原因を知りたい』という悲痛な訴えから始まりました。認定を勝ち取った要因の一つには、衛生委員会活動を含む組合の不断の労安活動があったと思う」と述べています。
またこの後、千葉県支部審査会でも、自治体の清掃労働者を公務災害認定させることができました。
自治労連は基金の認定審査にあたり、公務の職場の実態に応じた認定を行うことを要請する「地方公務員のアスベスト被害者救済を求める署名」をおこなっています。
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消防職員協議会の当事者能力認める
岡山東備消防裁判地裁判決 |
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消防職員団結権獲得へのワンステップ
岡山地方裁判所は10月15日、東備消防職員2人と東備消防職員協議会が、協議会会員への嫌がらせ差し止めと損害賠償を求めた訴訟の判決で原告の請求を棄却しました。原告団は即日控訴しました。この裁判は、2001年10月に、一部事務組合東備消防組合の職員十数人が「消防行政の発展及び職場環境の改善のために活動すること」を目的として職員協議会を結成し、給与格差改善等の項目を含む要望書提出等の自主活動を開始したことに対してはじまった消防当局による嫌がらせ、中傷、差別的取扱いの差し止めと、損害賠償を求めた裁判です。
判決は、恫喝等の一部を認めながらも、消防当局による組織的行為という実態から目を背けた極めて不当な内容です。しかし、この判決が、前提として職員協議会の当事者能力及び活動の意義・適法性を認めたことは、近い将来の消防職員団結権獲得という重要課題に至るワンステップとして評価することができます。
判決後、岡山市内において、原告、弁護団、支援者など約80人が参加し報告集会が開かれ、弁護団を代表して近藤幸夫弁護士から、次のように判決の詳しい評価説明がおこなわれました。
「(1)地方公務員法が消防職員の団結権を禁止しているなかで、協議会が原告となって起こした裁判について当事者能力を認めたことは画期的。(2)協議会の活動を全体として認めている。(3)慰謝料を棄却した点は、不当な立証制限と証拠評価を誤ったことの結果であって強く抗議する。(4)判決は、踏み込んだ認定を回避したもので、今後、控訴審で補充立証に最善を尽くす。(5)原告らは、同僚、住民、支援の方々と連帯し、奮闘する決意を固めている。この心意気を糧として、嫌がらせの実態とその違法性を必ず認定させ、消防職場の改革、団結権獲得へと続く動きを加速させたい」と次のたたかいに向け、力強く語りました。
▲原告弁護団・傍聴支援者たちと弁護士会館から裁判所に向けてアピール行動 |
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第21回自治労連全国スポーツ大会 |
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自治労連・自治労連共済結成20周年記念大会となる「第21回自治労連全国スポーツ大会」が開催されました。今年は10月22日〜24日、軟式野球は岩手県盛岡市および滝沢村、バレーボールは高知県高知市で同日開催。恵まれた天候のもと、軟式野球は野田市職労チーム(千葉)が昨年に続き優勝、バレーボールは2連覇を誇る自治労連都庁職チームを都予選で下した自治労連特区連チーム(東京)が初出場で優勝を飾りました。
野球
野田市職労(千葉)が2連覇
両投手の好投と好守で息詰まる決勝戦
軟式野球大会は、各ブロックから勝ちあがってきた代表10チームと開催地枠1チームの合計11チームによるトーナメント方式で実施しました。
決勝トーナメント
準決勝に勝ち進んだチームは、2回戦を延長大逆転で制した長崎市役所(長崎)、昨年初優勝の野田市職労(千葉)、昨年3位の宇部市職労(山口)と同じく3位の岸和田市職労(大阪)でした。
24日の準決勝第1試合は、野田市職労VS長崎市役所。野田・茂木大介投手、長崎・片岡英樹投手の好投で延長戦に入る投手戦となりました。双方8回まで無得点、均衡が破れたのは9回表、野田市職労が1点を入れ、これが決勝点になり1対0で勝利しました。
第2試合では、前回3位同士のチーム、宇部市職労と岸和田市職労が激突。岸和田・魚野智―黒川道春、宇部・豊田賢司の投げあいで、両チーム無得点のまま延長戦へ突入し、9回裏、岸和田市職労が1点をあげ、サヨナラ勝ちで決勝に進出しました。
決 勝 戦
決勝戦は、2連覇を狙う野田市職労と悲願の初優勝に燃える岸和田市職労の対決となりました。実力伯仲の投手戦となり、中盤まで両チーム無得点でしたが、野田市職労が5回表、1番長濱俊雄の左前適時打で先制。6回に4番佐藤茂の安打から追加点をあげ、2対0で岸和田市職労を破り、全試合を完封して、2連覇を達成しました。
キャプテン談話
「優勝はピッチャーに尽きます。無失点にこだわっていましたから。決勝戦は厳しい試合だったので、どちらが勝ってもおかしくなく、チャンスに1本出たのが良かったです」
▲茂木(もてぎ)大介投手(左)、
佐藤茂キャプテン(右) |
バレーボール
自治労連特区連(東京)
初出場で初優勝
決勝トーナメント
23日は県代表の12チームが4ブロックに分かれ、リーグ戦をたたかいました。
決勝トーナメント進出は、自治労連特区連(東京)、昨年3位の市原市職労(千葉)、初の決勝トーナメント進出の岡山市職労(岡山)、最多出場を誇る名古屋市職労(愛知)。抽選の結果、準決勝は自治労連特区連VS市原市職労、岡山市職労VS名古屋市職労という顔合わせになりました。
自治労連特区連VS市原は、特区連が21−16で第1セットを先取、市原が安定したプレーで巻き返しますが、常に特区連にリードを許し、17−21で特区連が決勝戦進出を決めました。
岡山VS名古屋は、第1セット8−21と名古屋に大差をつけられた岡山が第2セットで健闘するも4点差で及びませんでした。
〈予選リーグ〉
Aブロック
1位 岡山市職労(岡山)
2位 島田市労連(静岡)
3位 堺市職労(大阪)
Bブロック
1位 名古屋市職労(愛知)
2位 京都市職労(京都)
3位 四万十市職労(高知)
Cブロック
1位 自治労連特区連(東京)
2位 今治市職(愛媛)
3位 筑西市職(茨城)
Dブロック
1位 市原市職労(千葉)
2位 盛岡市職労(岩手)
3位 上尾市職労(埼玉) |
決 勝 戦
決勝戦は自治労連特区連VS名古屋。名古屋が第1セットを21−17で先取。巻き返しに燃える特区連は、第2セットの中盤でつけた8点差のリードを守りきり、そのまま21−17で第2セットを奪い返します。
過去3回の優勝経験を持つ名古屋としては、逆転で8年ぶりの優勝に持ち込みたいところですが、第2セットを制し勢いづいた特区連の勢いを止められず、中盤10点以上の点差を広げる展開になります。
名古屋は1点1点を返していくものの、徐々に特区連の勢いにのまれ、12−21で特区連の初優勝が決まりました。
▲初優勝を決めた自治労連特区連チーム |