2008年10月号 Vol.419

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倉田さんは1996年4月に水道課から美術館に異動しましたが、その直後から時間外勤務、休日出勤が恒常化し、退庁時間は午後10時を過ぎるようになりました。さらに、人事異動で上司2人が配置換えになり、さらに98年の機構改革によって、管理職以外の事務担当者が倉田さん1人になってしまったことで多忙を極め、いつも仕事を持ち帰らなければならず、就眠は深夜2時、3時になることがざらでした。その後も、仕事の状況の改善はされず98年12月30日に、2人の幼な子と妻を残し、くも膜下出血で急死しました。
98年4月1日から12月30日までの間、倉田さんの時間外勤務は記録簿に残された以外に、休日や早出の出勤、持ち帰り残業を含めて1048時間、1週あたり約27時間でした。加えて経験者が他におらず、精神的にも質的にも過重な公務を強いられたうえでの死亡でした。
利奈さんは、刈谷市から公務災害についての説明もないなかで、2002年5月公務災害の認定申請を行い、立ち上がりました。しかし、公務災害基金愛知県支部は、記録簿以外の残業は認めないなどとし、公務外としました。同年9月同支部に審査請求、07年10月棄却、同年11月に再審請求をするとともに、名古屋地裁への提訴に踏み切りました。7月8日地裁前には支援者、弁護団ら約50人が集まり倉田さんを激励しました。
9月9日に、第1回弁護手続きが行われ、12人が傍聴支援に参加しました。11月20日、第1回口頭弁論が開かれ、利奈さんが陳述することになっています。「過労死認定を求める会」では、大勢の参加で支援しようと準備を進めています。
▲「子どもたちと一緒に最後までたたかっていきます」と倉田利奈さん(中央) |


